2013-10

波起の雑記

大声で泣いた

久しぶりに泣いた 大声で泣いた ずっと泣いた 今日、午前中に 打ち合わせなどに行った方に ふと言われた 「本当に復興できるのかなぁ」 復興は、 どれだけ時間がかかるか分からないが、 絶対にするものだと思っていた。 突然、その言葉が心に飛び込んできた。 その方は、土木関係のお仕事で 阪神大震災の時には 高速道路を解体修理され、 東日本大震災では 親戚が石巻市で被災され 今も仮設住宅で生活されている。 その方に ふと言われた言葉。 嫌な想いをしたのではない もう泣かず、 いつも笑顔でいると決めたのに 家で 大声で泣いた 悔しいとかそういった感情ではなく 「復興」 って、なんだろう、って。 被災地と呼ばれる場所で 休みもなく 愛すべき町のために 自分たち家族が生きていくために 苦渋の決断や 耐えられないほどの 苦しみや、悲しみの中 それでも生き続ける みんなを想い 自然の絶対的な存在の前で 僕はあまりにも無力だと その自分への悔しさなのか どんなに努力しても 人間には、 どうする事も出来ない自然の力 その意味が、突然体を駆け巡った もう、我慢し続けてきた感情が溢れ 泣き続けた だいぶ泣いたあと 海を見た 台風が近づき 海が荒れている 自然と共に生きる とはファンタジーではないのだと 実感した。 さて、 絶対に 復興する 強い意思と共にまた歩き出します
ボランティア活動

これからを深く想う

大きな決意を持っての 7泊8日の三陸滞在。 移住、 長期滞在、 通う。 様々な可能性を探しました。 今後、僕は 東日本大震災に対して もっと深く「関わりたい」 という想いと、 では、実際には何が出来るのか? という狭間で揺れました。 でも、考えるより動き続けます。 またね三陸。 すぐに帰ってきます。 JR釜石線車内より。
ボランティア活動

慣れることなかれ

岩手県釜石市にて
ボランティア活動

被災地への移住の難しさ。

<移住の難しさ> 今、僕は、岩手県大槌町にいます。 旅館に宿泊しています。 7泊8日です。 僕は、大槌町に 「移住」し、 もっと深く「東日本大震災」のこれからに 関わっていきたいと思っていました。 しかし、 とても難しい状況に直面しています。 このことは、様々な被災された場所で 同じように起こっていることなのですが、 「住むところがない」 んです。 住民の方でさえ、 出たくても出れない「仮設住宅」 アパートなどの賃貸物件は1件もありません。 一番近くて、車で1時間はかかる他市になります。 「仮設住宅」は、 現在は、他の場所に引っ越したり、新しく家を建てたりなどで、 知り合いの方が入居している場所でも、 かなりの数、空いています。 今年の3月いっぱいまでは、 自治体によっては、 空いた仮設住宅を、 長期のボランティアさんなどに、 貸し出していた所もあったのですが、 現在は、そういったことは行われていません。
ボランティア活動

悲しみの町から希望の歌

悲しみの跡は、 探さなくてもたくさんあって、 いつの間にか、 その風景に 慣れてしまっている自分がいました。 家の基礎だけになってしまった場所では、 目じるしがなく、 道を何度も間違えてしまいます。 東日本大震災から2年半以上もそのままで、サビてしまった、建物やお鍋。 その横を少年が自転車で笑いながら駆け抜けます。 一歩外に出れば、 まだ生々しい傷跡が見える BAR LITOも、 店内は、オリーブオイルの優しい香りが、食欲をそそります。 高台にあり、津波の被害をまのがれた 吉里吉里小学校は、震災直後は避難所でした。 岩手県大槌町であった、 2年半前の大きな出来事は、 わかりやすい形では見えなくなってきてもいます。 悲しみに覆われていた町に、 希望が生まれてきています。 新しい命の誕生 新しいお店の優しい食事
ボランティア活動

もう、友だちなんだ!

昨年の5月、 岩手県大槌町の15才、 倉澤光二に出会った。 彼は、それまで仲良かった友人の弟だった。 仮設商店街のスナックで 俺が無理やりみんなの前に出して ヒューマンビートボックスをして 僕がフリースタイルでラップをした。 その次の日。 大槌町のすく隣。 岩手県釜石市鵜住居の旅館「宝来館」で働く「大ちゃん」に出会った。 彼もまたビートボックスをしていた。 光二と大ちゃんを引き合わせ、 その次の日に、 大槌町中を機材を持って周り、 ゲリラライブをたくさんした。 それから1年半。 昨年、今年と2回 岩手県大槌町で開催された 「おおつちありがとうロックフェスティバル」にも二人で出演した。 ステージの2人はカッコよかった。 光二は、 ヒューマンビートボックスの全国大会に昨年出演し、 今年もエントリーしている。 大ちゃんは、アカペラのグループで イベントなどに出演し、 音を鳴らしている。 道のきっかけは3人だったけど、 それぞれが、新しい道に進んでいる。
ボランティア活動

それでも、やっぱり、笑いあってる

今日から始まった、 岩手県大槌町吉里吉里の cafe & bar Apeの復旧作業。 ぞくぞくと集まって下さる人たちが 僕を名前で呼んでくれます。 津波の被害を受けた場所は、 盛り土をするため 基礎のある建物を建ててはいけないことになっています。 凄まじい台風は、 Apeをはじめとして、 船や車や家を破壊しました。 あちこちで、 修理などが行われています。 自然は、 これでもかと、 試練を与えてきます。 でも、 やっぱり、 今日もみんな笑いあってました。 困難に困難を極める状況を ポジティブな空気感が包んでいきます。 気がつくと、 僕も 僕の名前を呼んでくれる人たちと 一緒に作業しています。
ボランティア活動

台風とAPE

APE アペ あぺ ゲル 大きな台風が、 たくさんのものを持っていき たくさんの人が集まりました みんなに愛された APE 明日から 復旧作業、開始です!!
ボランティア活動

山元町での優しい時間

今日は朝早く自宅を出て、 宮城県山元町へ。 先日、 とても嬉しい報告のメッセージを貰ったので 佐藤作智栄さんと 息子のぜん君に会いに行きました! 山元町に到着後、 まず、久しぶりに来た 町の様子をぐるりと見てまわりました。 大きく変わっていく町と、 変わらない町。 宮城県山元町の JR常磐線「山下駅」。 山元町には高校がないため、 電車は、通学や通勤の 重要な交通手段でした。 まだ再開のメドはたっておらず、 そのためか、 山元町は宮城県でも 人口流出率が 最も高い町の一つになっています。
波起の雑記

ここからスタート

7月末に岩手県大槌町で行われた「おおつちありがとうロックフェスティバル」から、2ヶ月半。 終わって横須賀に戻り、体調を崩し、いつもの事かと思っていましたが、なかなか光が見えず、、、 家での仕事をゆっくりしながら、横須賀の、関東での日常を探す日々でした。僕にとって「日常」とは? 2011年3月11日「東日本大震災」が発生し、この震災後の世界で生きていくと思って駆け抜けた2年半。 でも、いつの間にか、震災前の日々が過ぎています。 「それってだいぶ前に起きた、北陸の地震の事?」 東京の人にこの言葉を聴いたとき、なんだか分からなくなったりしました。 そんな、混乱した心の時に、ふと電話やメールをくれたのは、震災後に出会った、三陸の友人・仲間・家族のような、 とてもとても大切人たちでした。 「風化」テレビというメディアで測るなら、本当に震災のニュースを見ることはなくなりました。 横須賀に戻ってからの、2ヶ月半ですら、現実感がなくなりかけます。 だから「日常」を探すのをやめました。「非日常」の連続が日常になっていくのだと。 岩手県三陸への移住を考え、僕の持っている、技術・知識・知恵を使って、仕事として、移住を模索しています。 なかなか、書類審査でダメだったりしますが、それでも動き続けます。 明後日ぐらいに出発し、ご縁のある方々を訪ねながら、岩手県大槌町に行きたいと思います。 予定は、きっちりと決めず、震災から2年半以上たった場所を訪ねながら、多くを感じていきたいと思います。