大槌町を毎月訪ね、みんなとの交流を続けている「THE STREET BEATS」のOKIさん。
久しぶりの再会だったのですが、強く、ずっと抱きしめてくれました。
一緒に写っているのは、大槌の女の子「りりかちゃん」と「なっちゃん」
みんな仲良しなんです。
僕の親友である大槌町の「倉澤光二」と釜石市の「山崎大」。
光二と大ちゃん。
素晴らしいパフォーマンスでした。
僕が、音響(PA)と司会を担当した「おらが大槌復興食堂」の「おらがステージ」
地元の人や多くのメディアも入り最後は入りきれないほどでした。
大槌町民の方々の募金によって打ち上げられた「ありがとう花火」
みんな、涙をふくのを忘れるくらい泣きました。
「おおつちありがとうロックフェスティバル」
通称
「ありフェス」
このことについて、すぐに何か書けませんでした。
昨年11月。
初めて、岩手県大槌町を訪ね、
「いつかロックフェスをやるんだ!」
と実行委員長であり、
おらが大槌復興食堂の夜の部を担当している
キミオさんから聞きました。
3月12日。
あの日から1年が過ぎた瞬間から、
ありフェスに向けて、
猛烈な勢いでスタートが切られました。
僕は、最初は「STAND WAVE」として出演のオファーを受けました。
その後、
ホームページや当日のPAもお願いされ、
僕らとしては、
このありフェスがみんなの笑顔で包まれるなら
僕自身が出演するより、
運営、裏方でお手伝いしたいと思い、
両方をこなすこは難しいと思い
出演を断りました。
4月、このブログでも「大槌に住みます!」と宣言し、
約3週間ほど、大槌に滞在し、
ホームページのイメージや、今後の運営の話しをしました。
ずっと大槌にいるつもりだったのですが、
大槌にいるより、横須賀にいる方が、
出来ることが多いのではないかと思い、
通うことに切り替えました。
連日、大槌の色々な仲間から
電話・メールがあり、
お互いに意思の疎通を取りながら進めていきました。
その中では、当然、すれ違いや誤解も多々ありました。
大槌町で初めて、このような大きな事が行われます。
誰も経験したことのないこと。
そのことに挑戦する、ということは、
並大抵のことではなく、
様々な意見が出て、
それぞれが喜び・苦しんだフェスまでの時間だったと思います。
僕は、横須賀で、随時上がってくる情報を
ホームページにアップし、
それを「Twitter」と「Facebook」を使って拡散していく、
ということ徹底しました。
また、他の沿岸地域で行われたフェスを参考に、
可能な限りアドバイス的な事もしました。
最初、1日40アクセスほどだったホームページが、
当日は13,000アクセスまでのび、
プレスリリースを特に打つこともなかったのに、
口コミで拡がり、
当日は多くのメディアがフェスを取材し、
次の日には、
全国放送の朝の番組で、
おらがステージに出演した「臼澤みさき」ちゃんの特集が組まれるほどでした。
そこには、
多くのデジタル、ネットワーク、ITを活用できるプロフェッショナルの人が関わり、
ボランティアの募集から、
当日のUstreamの配信まで、
物理的な距離、というハンデを吹き飛ばしてもあまりあるほど
大きなうねりになりました。
その大きな原点があります。
今は
「大槌SDSD」
と呼ばれる事が多くなりましたが、
彼らの正式名称
「岩手県大槌町を本気で復興させる会
大槌 STANDING STANDING」
のみんなのハート・気持ち・心です。
その、真っ直ぐで純粋な想いに、
多くの技術や気持ちを持った人が応え、
それが大きなうねりとなり今回のフェスが出来上がりました。
神奈川県と大槌町の関係は深く、
当日の交通整理などのボランティアさんの多くは
「神奈川県」
と書かれたビブスを着用していました。
きらり絆ステージでは
神奈川県葉山町のみなさんが「葉山コロッケ」などを出店して下さいました。
このフェスは「第0回」と名付けられました。
ここから生まれます。
心地良い余韻と、
祭の後の寂しさと、
これから続いていく前向きさと、
様々な感情が入り交じりながら、
今日も精一杯生きていきます。
「共に」
僕が一番大切にしている言葉です。
追伸:ありフェスの様子は、Ustreamで録画されていて、ほぼ全てのステージを見ることが出来ます。公式ホームページのトップページからご覧下さい。
http://www.arifes.jp/